失語症訪問相談シェヴー 〜「言葉人」研究所〜

「話せない」という起源と失語症者〜「回復」の両義性



1.「話せない」という起源 
 失語症者が回復してゆく過程において、ある特有の「基本的問題」が顕在化することがあります。それは、私たちの失われた起源である「話せない」ということ(=言語と人間の基本的関係の核)が本質的に関わっている点で「基本的」といってよい問題です。
 フロイト=ラカンの精神分析によれば、この世に生まれた子供が「言葉の世界」に参入し「話せる」ようになるには、「話せない」ままでいることを抑圧し喪失しなければなりません。それにより、私たちは意識的に話せるようになる一方で、「話せない」ことを無意識として抱えるという二重構造にとらえられて、話せない者(=in-fant,幼児)から話す主体へと転換されます(言語習得=これは「第二の誕生」といえます)。この二重構造によって、私たちは皆、他者と話し続け生きていくことになりますが、同時に、「話せない」ままでいたいという欲望が生じ、それを死ぬまで手離すことはありません。私たちは皆、話せないままに生まれてきたのであり、従って「話せない」ことは自らの存在の核であり、私たちの失われた“起源”であり、取り戻すべき“故郷”なのです(「話せない」という起源)。こうして「話す」ということの基底に、無意識として「話せない」ことが存在し続けることになります(中西、2005,2008a)。例えば、海外旅行の楽しさにはその国の言葉が話せないからこそ楽しいという面があるのではないでしょうか。また、時に私たちは言葉にできないほどの興奮や感激にかられ、そんな時はもう死んでもいいと思うこともあります。どちらの場合も、「話せない」ままでいたいという、起源への私たちの欲望が関わっていると考えられます。しかし、一方社会の中で「話せる」ことを維持し人と交わり生きてゆくには、「話せないままでいる」というわけにはいきません。私たちにとり、「話せない」ことというのは、抑圧されるべきものであると同時に、根源的な欲望の対象のままであり続けるという、やっかいな両義性をもつものだといえます。
 失語症を被るという危機の場合でも再び生きていく以上、失語症者は「話せる」ことをめざさなくてはなりません。しかしこの時、同時にこのやっかいな「話せない」という起源が無意識のうちに活性化するのです。人は意識の次元で合理的に解決できそうにないような危機に遭遇した時、無意識のうちに自らの起源へ回帰し、そこから立て直そうとするからです(フロイト,1926;新宮,1996,2006)。失語症者の場合も、「話せない」という失われた自らの起源にまで戻り、そこから、幼児の時と同じように「言葉の世界」へ参入する仕事が無意識的言語活動を通して開始されます。こうした動きは治療者との関係の中で語られる彼らの言葉や夢、描画などにあらわれますが(中西,2004)、その過程で時に、「話せない」という起源を断念しない、抑圧しきれないという失語症者があり、その時、ある特有の「基本的問題」が彼らにおいて生じるのです。
2.「基本的問題」とは
 そうした「基本的問題」として、私はこれまで対照的な二つの形を見出しています。一つは、「話せる」ようになることに過度に固執するといった形で現われます(中西、2008a)。もう一つは、全く反対にそうした固執はほとんど感じられず、「失語症で話せない」ことをそれほど苦にしているようにみえず、そのため「意欲のない患者さん」などと言われてしまうような場合です(中西、2008b)。いずれの場合も言語をめぐって生じている問題ですので、私たちは安易に心理的問題とせずに、あくまでも言語の問題として考察しなくてはなりません。この時必要なのは、言語は情報伝達や表現の手段であるという常識的な一元的言語観ではなく、精神分析の前提である意識/無意識の二元的な言語論です。
  さて一つ目の、「話せる」ようになることに過度に固執するという失語症者の場合、注目すべきは、今すぐ完治するということだけを願望し、それ以外のことには関心が向かず、しかも、その固執に現実味がそれほど感じられないという点です。こうした態度はフロイトが「幼児的なものに退行して、現実から離れ続け」(フロイト,1910)、「楽しみを味わうことも仕事をすることもできません」(フロイト,1916-1917)と述べている神経症者のそれに酷似しています。こうした失語症者の場合、「話せる」ことへの意識的な願望の背後に、それとは全く逆の「話せない」という起源への無意識的な欲望がうごめいていると考えられます(この「話せない」という起源は、「話せない」自分と「万能の力」をもつ<母>という他者の言語活動とが一体になっているような場所、即ち、「話せない」ままでよいと同時に「話せる」ような言語=「起源の言語」が存在する場所でもあります)。「話せる」ことへの過度の固執とは、「話せる」ことへの意識的な願望と「話せない」ままでいたいという無意識的な欲望との間に生じた葛藤をなんとか妥協させようとして形成された神経症的な症状=「反動形成」(ラプランシュ&ポンタリス,1976)だと考えられます。こうした固執に現実味がないのは、それが神経症的症状だからだと考えることができます。
 逆に二つ目の、そうした固執は感じられず「失語症で話せない」ことをそれほど苦にしないといった失語症者の場合も、「話せない」という起源への欲望を断念していないという点では変りません。しかしこの場合、その起源を抑圧しようとして神経症的な葛藤が生じるということなく、「話せない」ことを欲望し続けられる方略が採られます。この方略によって、一方で受身的にせよ他者と交流し、他方で「話せない」ままでいることに留まろうとする、相反する態度が並存可能となるのです(=「自我分裂」(フロイト,1938))。こうした失語症者の場合、治療者との会話において、彼自身は「話せない」、「話さない」ままで、「話す」ことは治療者が引き受ける、といったような分担・分裂が成立している関係、即ち、「話せない」幼児と<母>のような関係が保たれている限り、彼は安定したままでいられるのです。
3.「回復」の両義性
  以上、失われた「話せない」という起源と失語症者との根源的な関係から生じる二つの「基本的問題」について述べてきました。これらの「基本的問題」から、失語症者における言語やコミュニケーションの問題は決して道具的・実用的側面だけに限らないことを分かっていただけたと思います。失語症者にとり、現実的には「病前への回復」ということが重要な課題であり、むろん彼らもそれを意識的には望んでいるのですが、同時に、無意識的には「自らの起源を回復したい」という欲望も生じ、絶ち難くうごめいているのです。こうして「回復」とは、失語症者にとり、両義的なものだということになります。
(以上は日本リハビリテーション心理研究会(2010年10月)・パネルディスカッションでの発表「『話せない』という起源と失語症者〜回復の過程で“心理的”問題=言語的問題はどのように発生するのか」を若干修正したものです)

【引用文献】
フロイト(1926=1970).井村恒郎訳.“制止 症状 不安”.
 フロイト著作集 第6巻.人文書院, p.372)
フロイト(1938=2007).津田均訳.“精神分析概説”.フロイト
 全集22.岩波書店,p.246.
フロイト(1910=1983).高橋義孝,生松敬三訳.“精神分析に
 ついて”.フロイト著作集 第10巻. 人文書院,p.171.
フロイト(1916-1917=1971).懸田克躬,高橋義孝.“精神
 分析入門(正)”.フロイト著作集 第1巻.人文書院,p.375.
ラプランシュ&ポンタリス(1976=1977).村上仁監訳. 精神
 分析用語辞典. みすず書房.  p.384.
中西之信.(2004).“失語症者はどのように話せるようにな
  るのか―フロイト、ラカンの 視点から―”.言語臨床の
  「人間交差点」(シリーズ言語臨床事例集 第8巻).手
  束邦洋, 中西之信,崎原秀樹(編).学苑社,p.113-145.
中西之信.(2005).失語症者の“「言葉の世界」へ戻る仕
  事”―失語症治療と「精神分析的態度」.  精神分析
  研究.49(1),p.39-50.
中西之信.(2008a).失語症者はなぜ「言葉の回復」に固執
  するのか―フロイト-ラカンの精神 分析による検討.
  コミュニケーション障害学.25(1),p.2-10.
中西之信.(2008b).話せないまま愛されたい―失語症者
  の一つの選択.(未発表).
新宮一成.(1996). “宗教体験と夢体験”. 有福孝岳(編).
  現代における人間と宗教―何故に人間は宗教を求
  めるのか.京都大学学術出版会,p.110.
新宮一成,三浦雅士.(2006).ラカンへ向かう道.大航海,
  59,p.42-71.
【参考文献】
新宮一成.(2000).夢分析.岩波書店.
新宮一成,立木康介(編著).(2005).知の教科書―フロイト
  =ラカン.講談社.
フィンク,B.(1997=2008).中西之信,椿田貴史,舟木徹男,
 信友建志訳. ラカン派精神分析入門―理論と技法.
 誠信書房.

言葉を使う vs. 言葉が動く
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「話せない」という起源と
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「真理」と失語症者の発話
   (parole パロール)
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