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「真理verite」という語は私たちの普段の生活の中ではほとんど使わない言葉であろうし、失語症の言語臨床でもほとんど現れない用語だが、ラカンの精神分析では重要な概念の一つである。ラカンは『エクリ』の中で「真理」をめぐって次のように述べている。「発話paroleは、その真理が事物との一致と呼ばれているものに基づかない限りにおいて、よりいっそう真の発話として現れる。こうして真の発話は逆説的に真の言説discours vraiと対立する。これらの真理が異なるのは次のような点にある。即ち、真の発話vraie paroleは、主体たちがその中に=在るinter-essesことによって、主体たちによる己れの存在の承認reconnaissanceを形成するのに対し、真の言説は、主体が諸対象において現実を目指す限りにおいて、現実の認識connaissanceを作り出す」(エクリ351/「治療=型の異型について」1955)。そして「精神分析がその目標としているのは、ただひとえに、真の発話の到来、ならびに、主体が一つの未来への己れの関係の中で己れの歴史を実現するということである」(エクリ302,新宮訳103)、「我々が具体的分析経験において追跡し探し求める真理は高邁な法の真理でも、真理の法則でもないことは確かです。…、それは、主体の隠された地点において探そうとする真理であり、より個別的な真理だからなのです」(S7上32)とも述べている。精神分析臨床にとって真理とは、主体にとっての真理のことであり、「真の言説」には基づかない「個別的な真理」であり、「一つの未来への己れの関係の中で己れの歴史を実現する」、つまり「己れの存在の承認を形成する」真理である。そしてそれを顕わにする発話が「真の発話」なのである。 さて以上をふまえて失語症者の発話について考えてみよう。失語症臨床の場で先ず着目されるのは「真の言説」のほうである。失語症者は話すたびに失語症状が露呈し、言葉を事物に一致させられない事態が頻発し困惑する。例えば「猫」の絵を見て呼称するという場面(評価)において、喚語困難のため全く言葉が出なかったり、「分かってるのに」と言う言葉はスムーズに言えてもそのあとずっと沈黙が続いたり、「シロクンジャー」などといきなりジャーゴンが出てしまったり、「犬」と意味は近いが錯語になったり、といった様々な場合がある。発話がいわば「真の言説」になってくれず、「共通言語」を病前のようにスムーズに操れず話せなくなる。失語症臨床の作業は通常こうした事態を評価することから始まる。 では失語症臨床において「真の発話」は関係がない次元なのだろうか。失語症者から「真の発話」といえる言葉が発せられることはあるのだろうか・・・。筆者の経験から結論を先取りして言えば、失語症者においても「真の発話」が生み出され、それが彼ら自身に無視できない効果をもたらすのである。ST(言語聴覚士)はそうした発話を聞き逃してはならないし、そのためには「真の発話」が生じるような場を保っておかねばならない?失語症の臨床はこうしてラカンの精神分析に繋がってくる。 STがじっくり聞く姿勢(「何を話してもよい」)でいると、失語症者は実に様々な事柄を話し始める。STに向かい話し続けるうちにやがてある時、彼らは「新たな自分」への一歩を示すような言葉を発し、精神的な一つの区切りに辿りつく、という場合も多い。例えば、入院時に「大人と大人の会話ができない、なまっている」とたどたどしく話していた高齢の男性患者(軽度の失語&発語失行)は、その4か月後、退院を間近にひかえ、依然たどたどしい調子だったにもかかわらず、「私はね、普通の言葉が言えるからね、言語障害といいながら言語障害ではないです」と新たな境地を吐露した。入院当初「最初は全然話せなかった。真っ白でした。人間を否定されているような…生きている価値がないと思う」と話した女性患者(軽度ブローカ失語)は、退院の数日前、「(一昨日自宅外泊した時、その自宅で)泣いちゃった。家事ができなかった。…あまり家の中が汚いんで、がっかりしちゃった。…今までは強い女でした。今遠慮して(夫には強く文句を)言えない、ちょうどいいかな」と退院後の生活への不安な気持ちを吐露しながらも、自分の変化を認めるような言葉を残し退院となった。もう一つの例、訪問STを続けて8年目に自らST終了を決断した高齢の女性患者(中等度感覚失語)の言葉は「これからも書くわよ」であった?これはそれまで書いてきた日記を続けることを表明した言葉だったが、STはこの時この言葉を「これからも失語症のまま話すわよ」とも聞き取った。彼女はこの発話によって8年間の訪問STに自ら区切りをつけたのであった。 こうした失語症者たちの精神的区切りを示すような発話は「真の発話」と言い得る。彼らの言葉は彼らしか発することのできない「個別的な真理」であり、「一つの未来への己れの関係の中で己れの歴史を実現する」=「己れの存在の承認」する真理だろう。「失語症のまま話し続ける」という彼らの真理を彼ら固有の仕方で発見したことを示した発話なのである。 さてこうした「真の発話」たちは、「真の言説」の次元が依然として失語症によって損なわれ続けていても、いや、損なわれ続けているからこそ、それぞれの失語症者において生じたと言うことができる。即ち、失語症者の「真の発話」は冒頭に引用したラカンの言葉――「発話paroleは、その真理が事物との一致と呼ばれているものに基づかない限りにおいて、よりいっそう真の発話として現れる。こうして真の発話は逆説的に真の言説discours vraiと対立する」――を証立てているのである。 |