失語症訪問相談シェヴー 〜「言葉人」研究所〜

言葉を使う vs. 言葉が動く



  常識的には、私たちは言葉を使って人と話しているということになっています。しかし実際には、言葉のほうが私たちよりも先に動き出してどんどん喋ってしまったり、あるいは逆に、勝手に止まってしまい喋れなくなったりする、といったこともよくあります。例えば、友達と次から次へと話が弾み、考えてもみないことまで話になった、あの時思ってもいないことを言ってしまいとても恥ずかしかった、思っていたことがぜんぜん言えなくてがっかりした、などの経験は誰にでもあると思います。
  言葉と私たちの関係はそれほど単純で一方的な関係ではなく、互いに時に応じて主役を取り合ういわば緊張した関係にあるのではないでしょうか。私たちが言葉を使っているのか、言葉に私たちが使われているのか、簡単には断言できなくなってきます。もっとも私たちが生まれたばかりの時や、年を取ってきた時のことを考えれば、どうも軍配は言葉のほうに上がり、主役は基本的には言葉だということになるでしょう。赤ちゃんというのは一方的に言葉によって語られるだけの存在だということですし、では年をとればそれだけ徐々に言葉を自在に使いこなせて言葉が勝手に動かないように統制できるかといえば、そんなことは依然として不可能なままだと言うしかありません。年を取ることもこの点では関係はないのです。
  さてそうすると、失語症の場合はどう考えられるでしょうか。当たり前に使っていたと思っていた言葉が上手く使えない状態、つまり、言葉が勝手に動き出したり止まったりすることが前よりもとにかく頻繁に生じ顕在化している状態だといえます。失語症状の錯語や錯文法とは、言葉が勝手に動き、思ってもみない言葉が出てきてしまうことですし、喚語困難は、言葉が止まってしまい言いたいことが言えないことです。失語症によって、病前の自分と同じように、そして皆と同じように話すことが難しくなるのです。
  しかし、失語症であっても、言葉と私たちとの関係そのもの―言葉に使われると同時に言葉を使うという関係、即ち、言葉は人間の自由にならないと同時に自由になるとも幻想できる関係―が変わることはありません。失語症があっても言葉を使おうとすること自体はほとんどの場合依然可能ですし、言葉自体が動き出すことも、様々な失語症状による困難が出現する度合に応じて量的にかなり制限されることがあるものの、全く消失することはほとんどありません。重度の失語症の人でも、話に夢中になっている時など、言葉のほうが先に動き出し、その場にぴったりの言葉が思わず出ることがありますし、こちらがじっくり話を聞いているうちにやはり同じように話の鍵となるような言葉が生じて、そこから話がさらに発展していくといったこともあります。失語症の人が話さなくても、こちらのほうがじっくりといろいろ語りかけ尋ねていく(つまり失語症の人が“話される・話を聞かれる”)ことで、その方の思っていること(訴えたいこと、苦しんでいることなど)が初めて詳しく分かってくる、といったこともあります。
   また、失語症の人が言葉を使わなくては、きちんと言わなくてはなどと意識的に頑張りすぎると、かえって人と話せない、人と話したくないという状況に追い込まれてしまうことがあります。言葉を使おう使おうとすると、逆に言葉が使えなくなる。言葉と人間の関係はなかなか難しいものです。言葉を使おう・使ってほしいと願うよりも、言葉のことを考えず、言葉が勝手に知らないうちに出てくるような雰囲気・環境があるだけでよいのです。そんな時、誰が話しているのか、誰が聞かなくてはならないのか、などはたいして重要ではなくなります。話さなくとも、みんなの声がして言葉が行き交い、それを聞いているだけで心地よい。そんな時、ふと喋ってしまう。言葉が物や人、出来事と区別がつかないほどまぎれ込んでしまっている。そんな時空が日常生活、日常会話というものかもしれません。もっとも紛れ込んでおとなしくしたままで終われないのが言葉なので、依然として話すことをめぐる悩みはつきないのですが。

言葉を使う vs. 言葉が動く
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   (parole パロール)
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