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失語症者は、話すたびに様々な失語症状が露呈し、その都度病前と同じように“普通に”話すことを妨げられる。しかしさらに肝心なことは、それでもそのまま―失語症のまま―話し続けることができるということである。それでは何が失語症を可能にし、「失語症のまま話すこと」も可能にするのだろうか? 筆者の経験から失語症者の発話の一例をあげてみよう。まず中等度感覚失語(ジャルゴン失語)の男性の発話で、WAB失語症検査の物品呼称(実物を見せられ呼称するよう指示される)の場面である:鉛筆→「そうこばん、すーぱーまん?」/ボール→「どーる」/コップ→「まいどーうるしろ、ですね」/櫛→「くらぼう…、待ってます待ってます」/ピストル→「きゅう、ちゅうーばー」/かなづち→「じゃんけん」/ナイフ→「こー、くのばー」/灰皿→「すこーほーたら」/洗濯ばさみ→「これは…さいてい…なしっていうかな」。鉛筆の呼称での、別々の失語症者による様々な回答例も挙げよう:鉛筆→「…」、「と…と…」「か、かん」、「べん、こまるね」、「ねんぴつ」、「えんぴちゅ」(以上は無言、音節断片、音韻性錯語の例)、「たんわ」、「ちーかんだ」、「ばる」、「なんようび?じてんしゃじゃない」(以上は新造語などの例)など多彩な発話が出現するのである。 失語症者のこうした発話例は、検査場面で検者の指示(呼びかけ)に応じて回答(応答)した結果であるが、自分でも思いも寄らない言葉として発せられているのである。これらの発話の最大の特徴は、シニフィアンとシニフィエと一体であるシーニュという在り方から逸脱していることである。シニフィアンがシニフィエから離れて自由奔放に解き放たれているのである。こうした発話の現われを失語症学や神経心理学、言語病理学の分野では、失語症状とし、音韻性錯語・ジャルゴン、意味性錯語・ジャルゴンなどと分類している。 ではシニフィアンとは何か。新宮は次のように述べている。「シニフィアンの最も基本的な性質は、それがシニフィエ(概念)やシニフィカシォン(意味)から、潜在的に自由だということである。潜在的にという限定をつけたのは、シニフィアンのこの自由が現成化するのは特別の場合―すなわち無意識の機能において?だからである。日常経験において、概念と、概念に付せられた音声的・文字的材質とは切り離すことができない。両者は一体となって、言語記号、すなわち言葉を形造っている。言い換えれば、私の思考内容は、シニフィエ(概念)と、音声的・文字的材質(シニフィアン)とが合体した言語記号によって満たされている。…ふだんの生活で私が頭の中に「言葉」として思い浮かべるものは、シニフィアンではなくすでに言語記号である。裸のシニフィアンは、意識的思考の中には無い」(新宮一成『無意識の病理学―クラインとラカン』p.180-181)。 そうすると上記した失語症状たちは無意識が露呈したものと言えるのではないだろうか。失語症者において、器質的な大脳損傷の結果によるにせよ、シニフィアンの自由が現成化しているとみなせるのだから。もしそもそも言語活動において、シニフィアンとシニフィエが合体した記号という在り方しかなかったら、「enpitu」と発話すべき時に、上記のように思いも寄らないような多様多彩な発話が出現しないであろう。呼称するよう指示された失語症者がそれをきっかけとして延々とジャルゴンを喋り続けるといったことも実際にある。言語活動の本質は、記号の集合にあるのではなく、シニフィアン連鎖によって次々とシニフィエが生じるといった閉じることのないシステムにある 。失語症状の出現、そして失語症のまま話し続けることが可能であるのは、シニフィエやシニフィカシオンを置き去りする自由なシニフィアンの存在があればこそ、なのである。 ここまでくると、次に論じるべき問題もみえてくる。一つは、シニフィアンの自由から、どのようにして日常言語=記号的言語活動=共通言語は生じるのか。二つ目は、失語症におけるシニフィアンの現成化と、精神分析が問題とする現成化との異同をどのように考えるか。三つ目として、二つ目の疑問と関連するが、失語症者において精神分析の無意識はどのように作用するのか。という問題たちである。 これらの問題については稿をあらためて論じたい。 |