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フロイトは欲動について次のように述べている。「エスの欲求の緊張の背後にわれわれが想定する力を、われわれは欲動と呼ぶ。これは、心の生活への身体の要求を表している。欲動は、あらゆる活動の最終原因である」(フロイト「精神分析概説」,『フロイト全集22』,p.182)。欲動がなければ人間の活動は始まらないというほど、欲動には最重要の位置が与えられている。 フロイトは「欲動と欲動運命」(1915)の中で、欲動の概念に関連して用いられる四つの述語―衝迫、目標、源泉、対象―を挙げながら次のように述べている。「欲動は運動的な契機、圧迫してくるという性格をもち、能動的なものであり(欲動の衝迫)、その目標は満足である(欲動の目標)。その満足は、欲動の源泉にある刺激状態を除去することによってしか達成されない。この欲動の源泉は、ある器官ないしは身体の一部における身体的な過程で、なおかつその刺激が心の生活の中で欲動によって代表されているようなものとして理解される。身体的な源泉に由来するということは、欲動にとって決定的なことである。欲動の対象とは、それにおいて、あるいはそれによって欲動が自らの目標を達成しうるものである。欲動に関わるもののうち最も可変的なものであり、元からその欲動と結びついているわけではない。これは必ずしも余所から来た客体であるとは限らず、自分の身体の一部であってもよい。欲動が様々な生涯の運命を辿る中で、対象は何度となくしばしば変更されうる」(以上、『フロイト全集14』, p.172-173より)。 ここで強調しておきたいのは、欲動の対象が可変的であるという指摘である。立木(2007)はこのことを敷衍して、「この一見何気ない指摘は、・・・、欲望はその対象の関数であるという私たちの一般的ドクサを、一瞬のうちに沈めてしまう。すなわち、なんらかの対象があり、それが私たちの欲望を刺激すると考えるのは、フロイトにしたがえば誤りである。そうではなくて、少なくとも欲動の水準に立てば、満たされねばならない欲望が先に存在しており、それがたまたまなんらかの対象によって解消されると、それ以後あたかもその対象が欲望されているかのように認識される、ということなのである」(立木康介『精神分析と現実界』,2007)と述べている。 こうした点に注目しただけでも、欲動Treib, pulsionが、生物学的本能Instinkt, instinctと異なることは明らかである。そして、対象は可変的なものというフロイトの指摘は、のちのラカンのシニフィアン連鎖、シニフィアンの戯れというシニフィアンの自由な動きと対応していると言ってよい。実際、ラカンはフロイトを踏まえて、欲動は発話・シニフィアンによって生じると述べることによって、欲動が本能とは異なることを明確に示している。「欲動pulsionsとは、“言うことun direが在ること”に身体が反響?choすることである」(Lacan,J., Le sinthome,1975-76,p.7)。「欲動pulsionは、基本的にシニフィアンの純粋な戯れに帰すことができる」(Lacan,J.,Le d?sir et son interpretation,1958-59,p.571)。つまり、「欲動は心の生活への身体の要求を表している」(上述)ものだが、そもそも欲動が人間(乳児infans=話せない者)において生じるためには、ラカンは、逆に心の生活(=「言うこと」や「シニフィアン」)が身体へ影響を与えることが必要なのだということである。例えば、「欲動は・・・<他者>の要求の関数として発生する(たとえば、肛門欲動は、子どもがトイレをきちんと使えて、排泄機能もコントロールできるようにという両親の要求によって生じる)」(B.フィンク『ラカン派精神分析入門』, p.384)というように言われる。 では本論のもう一つの主題である声は、欲動とどのように関係しているのだろうか。ラカンは声を、欲動の基本的な対象―乳房、糞尿、声、眼差し―のうちの一つとして挙げている。そしてその声を対象とする欲動を「呼びかけ欲動」(ラカン『精神分析の四基本概念』p.266)と呼んで言及しているのだが、まとめて詳細には述べていない。そこでここではVives,J.-M.(2000,2013)の論述に依拠して、人間において、「呼びかけ欲動」がどのように発生するのか、その時、声はどのように位置づけられるのか、そして人はどのように自分の声を使うことができるようになるのかなど、みていこう。 ラカンは「欲動の往還」(同上,p.236)、「欲動の回路」(同上,p.238)といった言葉で欲動の動きを語っているが、「呼びかけ欲動の回路」については、Vives,J.-M.(2000,2013)に基づいて、大まかには次のようにまとめることができる: 人間(乳児)において欲動が発生、動き出し、呼びかける主体となるには、先ず<他者>から呼びかけられ、声を受け取らねばならない。<他者>は、乳児=話せない者in-fansの叫び声(泣き声)を、呼び声(要求)として解釈し意味づけ、乳児に呼びかけて返答する。その後、乳児は、<他者>の声に圧倒されずに、そして自分の叫び声を忘れることが出来れば、自分の声を使えるようになる。 Vives,J.-M.(2013)は、「呼びかけ欲動の回路」を次のような「三つの時tempsの生成」として記述している。 1.「聞かれる」時―乳児の叫び声(泣き声)が<他者>(<母親>) に呼び声として聞かれる 2.「聞く」時―乳児は<他者>の返答を聞く 3.「聞かせる」時―乳児は<他者>に呼びかけさせようと、<他者> に呼びかける <他者>の呼びかけ欲動が、人間において呼びかけ欲動を生じさせるのである。欲動が欲動を生じさせ、人間は人間とつながり、主体を生み出していくのである。 以下では、繰り返しの部分も多くなるが、いくつか重要な点をまとめておこう。 (1)<他者>の声は二重である: まず乳児の叫び声がある。その声は苦痛の表出であっても、まだ呼びかけの声ではない。その声が呼びかける声となるには、その条件として必ず<他者>(<母親>など)の声がなくてはならない。しかし、この<他者>の声は、乳児(=話せない者)を圧倒し不安を掻き立て、また、乳児を惹きつけ享楽をもたらす、原初の声でもある。従ってそれは現実的なものとしての声であり、決して意味としてはとらえられない声である。それにより乳児を話せないまま、死にいたらしめることさえできるだろう。しかし同時に、この<他者>の声は、すでに言葉の世界においてシニフィアンを連鎖させ、言葉を話し、欲望する声でもある。こうして乳児の耳に入ってくる<他者>の声は、二重になっているのである。 (2)聞くことの構造化―「聾点」の生成と「呼びかける主体」の誕生: さて乳児が呼びかける主体となるためには、こうした「声を聞くこと」が構造化されなければならない。つまり、乳児は母親の原初の声(これをVivesはこの音を「純粋な連続」とも述べている)には耳を貸さず、聞こえなくなるようにしなければならない(=原抑圧。これは精神病にならないということでもある)。そして、乳児は、自らの叫び声を解釈し返答してくれる声(例えば、「おなかすいたのね」など)=シニフィアンとしての声(これをVivesは「不連続」・「スカンションscantion(区切り)」と特徴づけている)だけを聞かなくてはならない。このように聞くことが構造化されることにより、乳児は、無意識の呼びかける(話す)主体、つまり自分が何を言っているのか知らずに話す主体となることができる。なおこうした構造化を、Vivesは、原抑圧による「聾点」の獲得とも述べている。 (3)「原初の声」の運命―対象aとしての声へ: 「原初の声」としての声は、元をただせば、この声なくして欲動の循環運動は作動せず、始まらないという声であった。それなのに抑圧されなければならない声でもある。このパラドックスが人間を、人間=話す存在たらしめるのである。つまり、乳児は原初の声に反響した(肯定した)後、その声は、原抑圧を通して「聾点」として抑圧され、忘れ去られ(拒絶され)、失われる。それにより乳児は自ら<他者>に呼びかける主体として声を使うことができるようになる。乳児という存在から原初の声は分離、抑圧され、乳児は主体となり、原初の声は対象となる。つまり、失われたという資格で対象として存在し続けることになるこの「原初の声」は、ラカンが対象aと名付けた「主体の心の中の、対象を容認する場所」(以下の引用より)としての対象なのである。この対象aの場所が確保されていることによって、呼びかける主体は、自分の声、他者の声を、意味を持つ声として捉え、話す主体として生きてゆくのである。 新宮(1989)は対象aを「直接的対象」と区別して次のように論じている: 「主体の心の中の、対象を容認する場所のことを、精神分析では対象というのであると考えてよい。つまり対象とは心の中に構成された特殊な部位のことであり、この部位に、さまざまな直接的対象が現れては消える。したがって対象の本質は空であり、空が空としてあるということが対象把持と同義になる。・・・。このような意味での対象は、欲望を満たすのではなくて、欲望を起こさせるものである。対象は、欲望の原因(cause du desir)である。空でありかつ欲望の原因であるこのような対象を、objet a(対象アー)と言う」(新宮一成『無意識の病理学』1989,p.215-216)。 「言語にとらわれることによって発生した無意味(意味づけ不能の場)は、人間の「穴」において身体的支えを見い出す。したがって、人間にとって「穴」が、対象の発生する場となる。・・・。ラカンは、対象aを、「声、糞便、乳房、そしてまなざし」の四つによって代表させている。このことは、対象の発生する場が、人間の身体の「穴」(口唇、肛門、眼裂など)であることと関係している」(新宮一成『無意識の病理学』1989,p.220)。 「原初の声」は呼びかけ欲動が目指す対象であるが、言語の世界では、抑圧されて失われた対象=対象aとなる。乳児(人間)は、今や、呼びかけとしての声・発話・シニフィアンの行き交う世界に参入しており、その中で声を用いるしかなくなる。しかし呼びかけ欲動は、依然として「原初の声」を、“起源”である究極的な対象として求め続ける。この呼びかけ欲動が、人間をして生涯にわたり話し続けさせ、欲望しつづけさせる力なのである。 「「言葉を話す」ことによって「欲動」を「欲望の運動」として永続させている「話す主体」は、永遠に到達し得ない対象を抱えてそのファンタスム〔幻想〕を構造化している」(藤田博史『性倒錯の構造』,p.155)。 |