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ラカンは、人間の言葉(paroleパロール,発話)というものは、誰かがそれを言葉と信じる程度に応じて言葉となるのだという。そしてそこではじめて単なる伝達ではないコミュニケーションが存在することになると述べている。ラカンはユリシーズの物語で、ユリシーズの仲間たちが豚に変身するという寓話を取り上げて、そのことを強調している。 「豚のブ−ブ−という鳴き声が言葉(パロ−ル)になるのは、その鳴き声が何を信じさせようとしているのだろうかという問いを、誰かが立てる時だけです。言葉は、誰かがその言葉を信じる正にその程度に応じて言葉なのです。では、豚に変わったユリシ−ズの仲間達はブ−ブ−鳴くことによって何を信じさせようとしているのでしょう。それは、彼らがまだ人間的なものを持っているということです。この場合ユリシ−ズを懐かしむ気持ちを表現することは、この豚達が自分達をユリシ−ズの仲間として承認してほしいと要求することです。言葉は、何よりもこの次元の中にこそ位置づけられるのです。言葉というものは、本質的に承認されるための手段です。言葉は背後にあるすべてのもの以前にあります。そして、それだからこそ言葉は両価的であり、計り知れないものなのです。言葉が言うこと、それは真実でしょうか、真実ではないのでしょうか。それは一つの幻影です。しかしこの始源的な幻影こそが、あなたが言葉の領野にいることを保証しているのです。こういう次元がなければ、コミュニケ−ションは、機械的な動きとほとんど同じ次元にあるような伝達される何かにしか過ぎません。先ほど、か細い音、つまり豚小屋の中での小さな音によるコミュニケ−ションということを言いました。それは、このブ−ブ−という鳴き声はことごとく機械的な用語で分析できるということです。しかし、この鳴き声が何かを信じさせようとし、また承認を要求するその時から、言葉が存在します。だからこそ、ある意味では動物のランガ−ジュという言い方もできるのです。つまり動物のランガ−ジュというものが存在するのは、それを解ろうとする人がいるという正にその限りにおいてです」(ラカン,『フロイトの技法論』,p.124-125)。 ラカンが以上述べていることの中から、いくつかのことをここで確認しておこう。まずラカンのいう言葉(パロール)とは言うまでもないことだが、シニフィアンとしての言葉である。シニフィアンとしての言葉はシニフィカシオン(意味作用)の次元とは区別されるべきものである。シニフィアンの次元が始まるのは、「記号が、何ものも意味しないでただそこにある、ということによって」(ラカン,『精神病』,p.53)であり、それによりシニフィアンは「絶えず異なるシニフィカシオンをもたらす」(同上,p.55)ことができる。そして、ただそこにあるという形で記号そのものを書き留めることができるのが人間である。このことをラカンは次のような喩えで説明している。「私は、海の上にいます。小さな船の船長です。そして夜の闇の中で揺れる何かを見ます。それは何かの記号であるかもしれないと思われるような揺れ方です。さて、私はどのような反応をするでしょうか。もし私が未だ人間存在ではないとすれば、いわゆる型にはまった反射運動的、情動的な様々な行動で反応します。私は、心理学者が記述しているような行動をするわけです。つまり、何かを了解するのです。そして遂には、私が、皆さんにしてはならないと言ってきたことをすべてするのです。逆に、私が人間存在であったなら、操作盤の上に次のように記入します。「何時何分、経度何度、緯度何度、しかじかの物を確認す」と。このことこそ重要なことです。私は、私の対応可能性を一旦さし控えるのです。シニフィアンの特徴とはそういうものです。私は記号そのものを書き留めるのです。シニフィカシオン的ではなく、シニフィアン的である限りでのコミュニケーションに必須なものは受け取り状です」(同上,p.53)。このシニフィアンとしての言葉の世界が象徴界という人間固有の世界をなすのである。「精神分析が私達に何かを教え、新たなものをもたらすとしたら、それはただ人間存在の発達の仕方は、シニフィカシオンから、すなわち本能の組み合わせとか相互の干渉から直接に導きだせるようなものでは全くないということです。人間世界、それを私達が認め、そこに私達が生き、その中で私達は方向づけられ、それがなければ私達はどこへ向かうこともできない、そういう世界、それは単に、諸シニフィカシオンの存在だけを含んでいるのではなく、シニフィアンの次元をも含んでいるのです」(同上,p.53)。 ラカンがこのようにシニフィアンの次元を強調しながら、真のコミュニケーションというものに言及していることに注目しておきたい。先の引用とやや重複するが、ラカンは真のコミュニケーションとは?と自問し、次のように述べている。「どういう時に真にコミュニケーションであると言えるのでしょう。それは明白だ、コミュニケーションには応答がなくてはならないとおっしゃるでしょう。それはもっともです。それは定義の問題です。では応答が記録された時から、コミュニケーションがあるということになるのでしょうか。でも応答とは一体何でしょう。それを定義する方法はただ一つ、何かが出発点に戻ってくることです。これはフィードバックのシェーマです。どこかに記録され、そのことによって調整の働きを引き起こす何かが戻って来ること、これがすべて応答です。コミュニケーションは、自動制御と共に始まることになります。しかしだからといって、これで私達はシニフィアンの機能という水準にいると言えるでしょうか。答えは否です。サーモスタットのついた電気器具ですらすでにフィードバックが行なわれています。そこにはシニフィアンの使用はありません。何故でしょう。シニフィアンそのものを取り出すには、もう一つのことが必要なのです。この点は第一に、すべての弁証法的な区別がそうであるように、逆説的な仕方で現われます。つまり、メッセージの受け手にとっては、メッセージの内容の効果、すなわちホルモンがやって来ることによって或る反応が器官に引き起こされるということが、重要なのではありません。メッセージが到達した瞬間に、そのメッセージを書き留めることこそが重要なのだ、と言う時に初めて、シニフィアンの使用があると言えるのです」(同上,p.52)。 真にコミュニケーションがあるのは、そこに一般的に言われているように情報の伝達があるという時ではなく、「何ものも意味しない」したがって「絶えず異なるシニフィカシオンをもたらす」ことのできるシニフィアンとして記号を書き留める人間が存在する時なのである。私たち人間は、こうしたコミュニケーションの次元、シニフィアンが作用する次元をもつことにより、夢を見・語り、機知の言葉を話し、症状を出現させることができる、あるいはそうしてしまう、そうせざるを得なくなるのである |